高倉健さんが亡くなっていまだに何か虚しさが残っている。
周辺の人々の追悼の談話、メッセージが続いているが、何とも言い難い、一個の人間像が消えてしまったという感じである。
昭和の時代が終わってからもう四半世紀経つが、実感としてこれを感じる。
2年ほど前に刊行された「高倉健インタヴューズ」を読み返すと、遺作となった「あなたへ」の撮影の前の心境について、日経電子版で述べている内容が紹介されており、記事を読んだ当時、如何にも健さんらしい心根と感じたことを改めて思い出す。
「・・・そんな弱りかけた気持ちに、ビシッとムチを入れてくれたものがあります。
それは、雑誌に掲載されていた一枚の写真でした。
イタリアにお住まいの作家の塩野七生さんが、現地の週刊誌に載っていたと紹介している写真でした。
気仙沼の被災地のがれきの中を歩く少年は、避難所で支給されたものでしょうか?
袖丈の余るジャンパーにピンク色の長靴をはいています。
両手には一本ずつ、焼酎の大型プラスチックボトルを握っています。
彼は、給水所で水をもらった帰りなのです。
その水を待っているのは幼い妹でしょうか?
年老いた祖父母なのでしょうか?
私の目をくぎ付けにしたのは、うつむき加減の少年のキリリと結ばれた口元でした。
左足を一歩踏み出した少年は、全身で私に訴えかけてきます。
『負けない。絶対に負けない…』
私は、その少年の写真をB5版のサイズにしてもらいました。
映画の台本の大きさです。
『あなたへ』の台本の裏表紙にその写真を貼りつけた時、胸の奥からほとばしった熱情。
クランクインは、数日後に迫っていました。」
ところで、富士通総研 経済研究所主席研究員の柯 隆( Ka Ryu)さんが、高倉健が亡くなったことをニュースで知った中国人の多くは、「微博」(中国語版ツイッター)に追悼の意を表すコメントを寄せた(それらのコメントにはロウソクのマークがつけられていた)、高倉健は、40代以上の中国人にとってまさにヒーローであった、「改革開放」の初期、中国社会はまるで文化的に砂漠のような状況だった、そこに滋養たっぷりのミネラルウォーターが注がれるように、高倉健の映画(「君よ憤怒の河を渉れ」など)が上映されたのだったと伝えている。
日中の架け橋という観点からも実に惜しまれる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42267