世間で無頼派作家とも呼ばれる伊集院静の「無頼のススメ」の内容が面白い。
無頼とは、正業につかず無法な行いをするとか、たよるべきところのないといった意味とされるが、ここでは、単なる外見上の恰好や振る舞い、他人に対する無礼な態度とは違い、人と群れないアウトサイダーではあっても、孤立したドロップアウトとも違い、あくまで、その人の心の持ち方、生きる姿勢のことをいっており、文字通り、「頼るものなし」という覚悟のこととしているようだ。
自分はどうしようもない人間で、ひどい怠け者なんだ、と自分自身の弱さをとことん知っておくことが無頼の大前提で、さらにどうせ他の人も同じだろうよとし、いつも誰かとつるんでいたり、他人と自分を引き比べて悩んだりするのではなく、独立独歩を貫くというのは、厳しく難しいかもしれないが、ある意味随分身軽で気持がいいだろうと思う。
人は生まれる時も死ぬ時も、結局は一人でしかなく、この当たり前の大原則を心にとめておけば、他人からどう言われようがかまわないことになるというのも、尤もだろう。
家柄、学歴、肩書などは、その人の正体などではなく、そういう意味の飾り物ではない、それ以前の正真正銘の自分、それを知ることが無頼の始まりという。
自分の正体が分かると、必要以上のものを求めなくなる、欲が減っていって生きるのが楽になってくるとしたうえで、ただし、そこに至る手軽な近道はないけどね、というのは本音だろう。
無頼の“姿勢”について、例えば酒場へ行ったら一人で飲む、誰かと飲んで別れるときは一人で路地へ消える、目立つことはするな、酒場では騒がない、人前での土下座、まして号泣するなんて話にもならない、などは、自ら省みても参考になる。
実体験を持つ戦争世代はともかく、戦後生まれの人にとっては想像力と嗅覚が頼りで、「これは危ないぞ」、「それは違うのではないか」など、いち早くそれを感じ取る直感というのは、マスコミの情報やイデオロギーに頼っている限りは得られず、頼るものなし、と覚悟を決めてこそ本当の個としての判断力が身についてくるはずというのは間違いないだろう。
空海に、「虚しく往きて実ちて帰る」という言葉があり、実際、空海は讃岐の国の無名の僧から超難関をパスして遣唐使の一行に入り、密教というとてつもなく大きなものを得て帰ってきているが、自分はどうしようもない人間だと分っていれば、おかしな打算もなく、心を虚しくして無心でことに当たったから、真価がよく見えてきて、密教という考え方は人間にとって不可欠なもの、世の中にとって本当に必要なものだと分ればこそ遮二無二学び、真正面から対峙することができたというのは、よく理解できる。